はじめに
筆者はロマン溢れる中国史が好きです。
その中でも、西楚の覇王項羽、前漢・後漢王朝400年の祖である高祖劉邦を筆頭に、魅力的な人物が綺羅星のごとく登場する秦末~楚漢戦争期は特に面白い時代だと思っています。
「史記」で語られるこの時代の話は、ドラマチックで面白いのは間違いないのだが、明らかに不自然な点や多くのツッコミどころも多いです。
司馬遷が史記を書いたときには既に、楚漢戦争は100年ほど過去の歴史の話になっていたわけで、詳しい記録が残っていない部分があったり、面白おかしいエピソードが史実と区別がつかない状態になっている点が多々あったのでしょう。
その中で筆者が疑問だった点の一つが、「背水の陣」の故事成語の由来となった井陘の戦いでした。いくら天才、国士無双!で知られる韓信の策とはいえ、展開に都合が良すぎないだろうか?ということです。
これについて、一通り納得のいく考察ができたので書いてみようと思います。
定番の井陘の戦いのあらすじ
知らない方のために、井陘の戦いのあらすじを紹介しましょう。
時は紀元前204年、当時の中国では、楚の項羽、漢の劉邦の二陣営に分かれ、両者が天下をかけて争う「楚漢戦争」が繰り広げられていた。
漢の名将韓信は、漢に敵対する趙を討伐するため趙に進軍した。しかしながら、韓信は兵力不足の劉邦本軍に兵を供出したばかりであり、総兵力は3万程度であった。
一方、趙の実権を掌握していた宰相の陳余は20万と号する大軍で韓信軍を迎え撃つ。
進軍してきた韓信は河を背にして布陣、これは兵法の常識に反する行動だった。これを見た趙軍は、韓信は兵法の初歩も知らないと嘲笑い、全軍をもって韓信軍に攻めかかる。
しかしながら、兵力では圧倒的に趙軍が勝っていたものの、後に逃げ道のない韓信軍の兵は必死で戦い、破ることができなかった。攻めあぐねた趙軍は一度城に退却しようとしたが、そこで驚きの光景を目にする。なんと、城には大量の漢の旗が翻っていた。韓信は別動隊に2千の兵を割いて、裏側から趙の本城を陥落させていたのだった。
本拠を落とされた趙軍は大混乱に陥り、総崩れとなった。陳余は捕らえられて処刑された。
韓信が圧倒的な兵力差を覆して完全勝利したこの戦いは、稀代の名将韓信の伝説的な戦いの一つになっている。
疑問
韓信が型破りな「背水の陣」を敷いて、これほどの大勝利を挙げたということが、当時から伝説になったのでしょう。これにより、現代まで「背水の陣」という故事成語が残ることとなりました。
しかしながら、筆者はこの「史記」での井陘の戦いの描写について、いかのような2点の疑問があります。
なぜ陳余は後方の守りを手薄にしていたのか
陳余は20万人もの兵を率いていた、ということになっていたはずなのに、「背水の陣」を敷いている韓信を攻めている間に、たった2千の韓信別動隊に本拠を落とされてしまいます。
いくら全力で韓信軍と全力で決戦がしたかったと言っても、ここまで本拠を手薄にすることがあるのでしょうか?
それに、本拠もある程度の防御構造はあったはずで、手薄だったとしても2千の兵に一瞬で制圧されるのは不自然な気がします。
なぜ韓信は非常に大きなリスクを取る作戦を選んだのか
「背水の陣」が勝因だったように語られますが、あらすじを読むと分かる通り、一番の勝因は別動隊での本拠奇襲が成功したためです。逆に言えば、史記を見ると韓信の勝ち筋はこれしかなかったわけであり、この奇襲が失敗して、別動隊が撃退されていたならば、敵地・背水の陣・兵力大劣勢という状況がどうにもならず全滅していたことでしょう。
名将として名高く、兵法に通じていたであろう韓信が、奇襲の成功一本のみに賭け、失敗したら全滅するような作戦を実行するでしょうか?
考察 背水の陣の真の狙い
井陘の戦いでの韓信の本当の勝算は、記録には残っていないが、「趙の有力者を調略して寝返らせていたためではないか」というのが筆者の説です。このように考える根拠を見ていきましょう。
韓信の背水の陣の作戦に別の意味が与えられる
この仮説を導入した、筆者のシナリオを考えてみましょう。
韓信は出兵前の段階で趙のそれなりの大物の調略を行い、寝返り工作を成功させていた。
寝返りの効果を、趙軍の本拠奪取という形で最大限活用するために韓信が立てた策が「背水の陣」であり、陳余に対して好機を演出して前線に引っ張り出すというのが最も大きな狙いだったのではないでしょうか。
なぜ陳余を引っ張り出したかったのか?
これには以下のような韓信の思惑があったのではないかと考えると自然です。
- 寝返りからの本拠奪取を成功させるため、陳余とその本軍は確実に前線に引き付けておきたい。
- 持久戦狙いで籠城されると、裏切りが露見するリスクが高まる
そして現に陳余と本軍は、韓信の背水の陣を叩くために出陣していきます。しかしながら、史記の記述のように本拠を空同然にしたのではなく、一定の数の守備隊は残したことでしょう。
しかしながら、この守備隊の一部がすでに漢軍の調略による手が伸びていたのだった―。
戦闘と裏切り
韓信の脳内では、趙本拠での寝返りと本拠陥落は確信に近いものであり、それが実現するまでに自分の背水の陣が囮となり、時間を稼げば勝利間違いなしと考えていたのだと思います。
それまでの時間は背水の陣による士気の向上、河を背にすることで敵の攻撃を1方向に限定する効果で乗り切ります。陳余軍は大軍ではあったものの、河のせいで包囲ができず、大軍の利を生かしにくかったのでしょう。
そして後方では韓信の思惑通り、韓信別動隊の奇襲を合図に、趙の守備軍の一部が寝返り、あっさりと本拠が陥落してしまう。後の展開は史記に描かれた通りです。
このような仮定をしても史記の記述や状況と矛盾が生じない
韓信の使った搦め手
史記にも、韓信が趙軍の内部を探らせている描写があります。さらに調略に取り組んでいたと考えるのはむしろ自然でしょう。
また、陳余と趙の将軍李左車のやりとりまで把握していたという描写があります。これは趙でも重臣会議に参加できるほどの大物の内通者を得て、そこから情報を得ていたと考えるのは、むしろ自然ではないでしょうか?
陳余政権の脆弱性と張耳の存在
陳余を語る上で、切っても切り話せない人物として張耳がいます。張耳はこの戦いでの韓信の副将です。
もともと、陳余と張耳は大親友でしたが、秦末の混乱や戦争を通して、張耳は陳余に疑念を抱くことになり、二人の関係は破綻して敵対することになります。その二人の死闘の最終章がこの井陘の戦いでもあるのです。
そもそも、陳余が趙の権力を握った経緯はというと、趙の実力者として認められていた張耳を、武力によって陳余が倒したためでした。さらに、陳余は趙の王族でもなく、秦末の混乱に乗じて権力を握った人物です。
このような経緯ですから、陳余の権力基盤は全く盤石ではなかったでしょうし、趙にも張耳派の人物が残っていたり、張耳の人脈を生かした調略が掛かりやすい状態だったりしたことでしょう。韓信がこのような陳余政権の弱点を知っており、張耳を活用して調略を仕掛けようとするのは当然の流れではないでしょうか?
なぜ史料にこの解釈を支持する記録が残らなかったのか
こういった政治工作や内応といった「搦手」は、その性質上、記録に残りにくかったのではないかと思います。さらに言えば、この戦いの主役の韓信は漢初に三族ごと滅亡したことにより、韓信の戦いの経過や兵法についても詳細が伝わっていないとも考えられます。
司馬遷が史記を編纂した時代には、すでに詳細な内幕の記録は失われており、劇的な展開、面白い逸話だけが伝説として残っていた可能性が高いと筆者は考えています。
まとめ
この仮説によって考えると、韓信は事前の調略にて、既に勝利への道筋を付けていたことになり、「背水の陣」はダメ押しの戦術に過ぎないという印象になります。これはまさに、孫子で語られる「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む」の体現です。
リスクの高い戦略を思い切って実行して勝利したという従来の展開とは異なり、兵法に通じた韓信らしい勝利と解釈することができ、この方が彼らしいと筆者は思います。
あとがき
なんであれ、「背水の陣」をただがむしゃらに頑張る、みたいな意味で使うのは韓信ファンの私としてはモヤります。
史記の記録に残っている記載を見ても、韓信は事前に情報収集や周到な準備をして、十分な勝算を持ったうえでここ一番を凌ぐためだけに使っていますからね。
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